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「科学」をマスターしてイキイキ人生!

何のために勉強するのか?

 最近,この手の問いかけが大流行ですね。「何にために働くのか?」「何のために生きるのか?」…私は,この手の質問に真面目に答えようとした善意が,そもそも問題をこじらせてしまった原因なのではないかと疑っています。その理由は2つあります。
 第1に,人が「何のために…」と言い出した時には,心の中ではすでにして「やりたくない」と言っている場合がほとんどです。そんな人間を納得させ,さらに行動へと駆り立てるのは容易なことではありません。そして,第2に(これが本質的理由ですが)この手の大きな問は無敵だということです。おいしい料理を作りたい人が食品科学を学ぶ理由は説明できても,「勉強するという行為一般」の意味づけはできません。
 問題を大きくすることにより無敵の議論に持ち込む手法は,村上某が「金儲け,悪いことですか?」と言い放って世間を煙に巻いた事件を思い出させます。私は,あの発言を聞いた時に,アレが村上さんの賢しらさであり,かつ,限界だと思いました。世間が「あなたの金儲けの仕方が悪い」と非難しているときに,問題を無敵の議論にすり替えることは,彼の賢さ。でも,無敵の議論からは何ら生産的な物事は生み出すことはありませんから,まったく不毛な議論であるという点では彼の限界を露呈しています。NHKは,村上発言だけをめぐって,様々な人々へのインタビューを行い,1時間半にも及ぶ番組をつくりました。あの番組の中で唯一,私が納得した回答は,山田洋次監督が寅さんになりかわって発言した「それを言っちゃーおしめーよ!」でした。

違和感に満ちた世界をどう生き抜くか?

 いろいろな理由があるのでしょうが,現代人はどうも居心地の悪さ<違和感>を心に抱えて生きているようです。この心地悪さに耐えるのが辛くなると,あらゆる刺激にフタをしてしまう無関心状態になる人も出てきます。無関心は英語で言うとindifference,差異の否定です。すなわち意識的に「感度」を落として差異や価値を認識しない状態に入ることです。こういったところにニート問題なんかの一端もあるのかもしれません。
 違和感はあくまで主観的なものです。ギャップがあるという居心地の悪い感覚が違和感だということができるでしょう。ここで,もし違和感を覚える状況に対して,「自分」というこだわりを捨てて俯瞰的な視点を取ることができれば,どうすればそのギャップを埋められるかという具体的な方法論が見えてくるものです。すなわち,違和感に基づく「悩み」を解決可能な「問題」に転化できます。問題を正しく述べることができるようになれば,たいていは,問題が半分解けたも同然です。
 「悩み」は悩みを自分の中に閉じ込めてしまえばしまうほど無限増殖を繰り返します。ちょっと一歩引いて,自分の悩みを他人事として眺めて見ると結構,答が見つかるものです。
 実は,このような視点移動は「科学」が得意とするところなのです。自然科学では自分が自然の一部であるにもかかわらず,とりあえず自分はシステムから外れて俯瞰的に自然を観察するということを平気でおこないます。あるいは,自分という視点を捨てて,現象の本質を見るのに最も適した視点から物事を観察します。(私は,よく自分が分子になったらどうするか,という気持ちで高分子構造の生成を考えています。)自分を絶対化しないという生きる知恵が科学を育んだともいえるでしょう。己を殺すことにより,己を生かす。これが,科学の日本人的解釈かな,と思っています。
 「あるある大事典」のデータ捏造事件が奇しくもクローズアップしたのは,世間の科学に対する誤った考え方でした。科学は,決して問題に対する安直なご託宣を授ける装置ではありません。科学は,むしろ我々が生きていく上で習得すべき,一つの技なのです。

科学教育は人を幸せにします!

 科学教育が,すべての人に必要なのは,決して,理科や科学技術がよくわかるようになるためだけではありません。科学の考え方をマスターしていれば,悩みを問題に転化し,問題を創造的に解決できる人生の知恵も身につけることができるのです。近年の理科離れには科学の実利的効用や表面的な面白さばかりを強調しすぎたことも一因であるように思われます。
 違和感を持つという悩みの状態は,「感度」を落とした無関心状態へと落ち込む危険もあります。しかしながら他者の立場に立つ「科学」の方法論を活用して,「感度」を高めた状態に持ち込むことにより,問題発見・創造的問題解決へと続く飛躍への道筋ともなり得るのです。不安,不満,不思議を安心,満足,納得に変えるプロセス。自分ってこんなことができるんだという気付き,これこそ創造の歓び,そして生命の躍動を実感する時なのではないでしょうか。
 科学をマスターすることは,悩みを飛躍へと導く生き方の哲学を学ぶことでもあるのです。